百済三書と『三国史記』

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倭国と日本国の関係史
資料事実に整合する日本古代史を求めて
百済三書と『三国史記
2006.10.21
 『日本書紀』には多くの書物からの引用がある。その引用書のうち『百済記』『百済新撰』『百済本記』の三書を百済三書と呼んでいる。
  『百済記』からの引用は神功皇后47年、62年、応神天皇8年、25年、雄略天皇20年の5箇所、『百済新撰』からの引用は雄略天皇2年、5年、武烈天皇4年の3箇所、『百済本記』からの引用は継体天皇3年、7年、9年、25年、欽明天皇2年、5年(8箇所)、6年、7年、11年(2箇所)、そして17年の計18箇所、三書全体で26箇所ある。
  欽明紀は『百済本記』から14箇所の引用があり最も多い。欽明紀がほとんど百済新羅任那記事になっていることを考えれば、これは当然のことかもしれない。これらの記事は百済三書に発した百済系史料によって書かれたとみられている。
  ところでこの百済三書とはどのような史書なのだろうか。偽書であるとするもの、朝庭に進上する目的で編纂されたとするもの、百済で書かれたものを亡命百済人が「やまと」に迎合するために編集しなおしたとするものなど、さまざまな見方がされている。この問題は中国史書や朝鮮半島諸国と日本列島諸国との関係などを含め、多角的に検討されなければならないだろう。
  日本古代史の中で『日本書紀』を考える場合、百済系史料がどのような経緯で、どのような目的で『日本書紀』に組み入れられたのか、ということはその最大のテーマであり、このことが解明できたとき、日本古代史はすべて解けるはずである。『古事記』『日本書紀』がなぜ中国史書と異なった歴史を記述し、日本の歴史でありながら『日本書紀』がなぜ百済系史料を大量に使用したのか。糸口はこの辺にありそうなのだが、なかなかこういったところを気にする研究者はいないようだ。