百済記 百済新撰 百済本記 について

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古田説を批判する 2.朝鮮半島史料の「日本」

さて、『日本書紀』には三つの百済史書が引用されている。

百済記』…神功紀から応神紀にかけてと、雄略紀に引用されている。百済の王で言うと、肖古王から蓋鹵王までの九代(三四六〜四七五)。
百済新撰』…雄略紀と武烈紀に引用されている。百済王では、蓋鹵王から武寧王まで五代(四五五〜五二三)。
百済本記』…継体紀、欽明紀に引用。百済王なら、武寧王から威徳王までの三代(五〇一〜五五七)。
これらである。この百済系三書に対する、古田の批判を見よう。

1、『日本書紀』では、神功紀に『魏志倭人伝』の引用が見られる。だが、これは、

(1)『魏志』の「倭女王」とは、卑弥呼であり、卑弥呼神功皇后とは、別人である。
(2)卑弥呼は三世紀、神功皇后は四世紀の人であり、時代が異なる。

という二点(人物の異同と紀年)で無理がある。従って、同じ神功紀に引用された「百済記」が先の二点(人物の異同と紀年)で正しいか、疑問である。その他の「百済系三書」についても、同じことが言える。
2、よって、「百済系三書」の叙述対象の「倭」が、どの王朝をさすのか、これを慎重に検討する必要がある。
3、「百済新撰」(六世紀の成立と推定)に「大倭」の用語がある。これは、『三国志』の「使大倭」、『後漢書』の「大倭王」の用例に基づいていると考えられる。決して後代の「大倭(大和)」の用例に基づくものではない。したがって、「百済新撰」にいう「倭」は九州をさしている。
4、「百済新撰」の最終記事(五〇二年)と「百済本記」の最初記事(五〇九年)とは、わずか七年であり、両書が「武寧王」について記述している。この点から、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
5、同様に「百済新撰」の最初記事(四五八年)と「百済記」の最終記事(四七六年)が交錯している。また、ともに「蓋鹵王」について記述している。したがって、両書の「倭」が別々だ、とは考えられない。
6、さらに「百済記」と『魏志』は同じ神功紀にある。両書の「倭」は同一。少なくとも書紀の編者には、そう見えていたはずである。
7、『魏志』の「倭」は九州王朝である。
8、従って、「百済記」「百済新撰」「百済本記」の「倭」は九州王朝である。
9、「百済本記」にはしばしば「日本」という国号が出てくる。これを「信用しない(書紀編者の書き換えと見なす)」というのが通説だが、「百済記」「百済新撰」には「日本」という国号は出てこない(倭→日本という書き換えは行われていない)から、「百済本記」そのものにもともと存在した、と見なすべきである。
10、したがって、この「日本」も九州王朝と見なされる。

慎重な立論であるかに見えるが、ここには、大きな問題が見られる。1〜9については、一応、異論は無い。ところが問題は10である。ここには、大きな飛躍が見られる。当然ながら、「百済本記」における「倭国」と「日本」が同一国を指しているのか、十分に検証する必要があるのである。これを検証するためには、『日本書紀』の検証が不可欠となるだろう。