百人一首42、清原元輔、末の松山 波こさじ

7/3日、日経・風見鶏の引用、作歌者・清原元輔(908-990)は清少納言の父、
契りきな かたみに袖を絞りつつ 末の松山 波こさじとは

以下、引用;
相馬から北に50キロ強。簡単に「想定外」と口走る現代の識者を諭す歌枕の丘が宮城県の史跡の町、多賀城にある。(歌42の引用)。百人一首で有名な歌は意訳すれば「小高い丘をなす末の松山を波が越すことがないように二人の思いも永遠」となる。869年の貞観津波では多賀城の数千戸が壊滅した。松山の下の定国寺住職、加藤秀幸氏は「古来、津波は何度も来たが、末の松山は越えない」との言い伝えを紹介する。果たして今回の震災でも津波は松山を越えず、寺の本堂前でぴたり止まった。壇家の犠牲者はそれでも30人。伝承を思い起こした住人は余震の際、寺に逃げ一夜を過ごした。
東北学院大工学部の河野幸夫教授も「想定外」をしかる。海底調査などから「歌われた波は貞観津波で、激震により仙台湾に浮かぶ大根島が沈んだ」と指摘する。

以上、引用終わり。

大岡信百人一首」は、恋人どおしの固い約束の歌と解していて、地震のすさまじさに迫るリアリティには全く欠けている。

貞観11年(869年)、東北沖で大地震が発生し、巨大な津波が押し寄せたのでした。
大きな津波の話が 京都まで 伝わったのでしょう 。