7/2日経 一目均衡「株主主権論からの卒業」

新しい企業統治モデルの提案かと思わせたが、旧来の日本型統治モデルへの回帰への主張であった。

主張のベースは株主の権限を制約せよということで、「株主権を神聖視」するのはやりすぎではないかと問う。なぜなら、株主は「責任限定で売却が前提の投資家は、株式の所有者でも企業の所有者とはいえない」からだ。

それを踏まえて、「株式会社の歴史は証券市場の発達や企業の巨大化に伴う株主の分散・流動化の歴史で、企業統治の要の株主総会の形骸化と総会権限縮小の歴史でもある」と断じる。そして「米英は社外取締役が過半を占める取締役会の機能を執行から監督に移行した」とする。

だが編集委員はこれらの点で誤認している。市場で株を買った投資家は企業の所有者には認められないというのは飛躍しすぎている。株主が投資家の顔を持っていたとしても、所有者として自己の利益を求めることは否定する理由はない。それを否定していては証券市場そのものが成り立たなくなろう。

次に米英では株主総会が形骸化して、その隙間を埋めるものとして取締役会が取って代わったという指摘は、順序を逆さまにした誤解である。株主の代理人である取締役と取締役会が経営者の監督をしっかり行っているから、株主総会の権限が縮小されていったのである。

経営者は時に自己保身、株主利益の二者択一のジレンマに陥ることがある。特に日本ではこれに加えて、企業の存続・発展(お家大事)というもうひとつの要素が加わりトリレンマに苦しむことになる。利益相反のあるとき、経営者に精神論で良心に期待するのではなく、制度的にジレンマやトリレンマを相克できる仕組みづくりが必要である。