6/10日経・風見鶏「原発にも文民統制が要る」

6/10日経・風見鶏「原発にも文民統制が要る」特別編集委員伊奈久喜
面白そうなタイトルだが、要約すると次のようになる。

政治家は選挙で落とすという責任追及ができるので野田政権を信頼し、判断を任せられる。専門家は選挙で落とすという責任追及ができない。
内容と関係なく、首相の判断には正当性がある。問題が忘れられぬうちに、中身の是非を有権者に問えば、それは完結する。
つまり、選挙で選ばれた首相が判断したことなので、その判断を良しとしましょうということである。

だがこの論説には無理がある。
伊奈氏自身認めているように、「菅直人氏が首相だったら結果は逆だったはず」と「菅直人リスク」を論説の中で指摘している。菅氏が逆の判断をしていたとしたら、伊奈氏はこのような論説を発表しただろうか。私にはそうは思えない。その時には別の理屈を付けて、菅氏を批判していたのではないだろうか。
専門家の判断より政治家の判断を優先するのであれば、日銀の存在はどのように考えておられるのだろうか。曲がりなりにも日銀が今あるように機能しているのは、個々の判断に政治家が関与しなくてもそれなりに統治の仕組みが整っているからである。原子力の問題は、金融市場を相手にする日銀以上に技術的なものであるという認識が必要である。技術的な判断は専門家に委ね、その中でどのような統治の仕組みを企画するかが政治家に期待される役割である。技術的問題を理解せず、政治的思惑で政治家が関与することこそ問題である。その意味で、原子力の問題を相手の出方が読めない戦争と比較するのは少しずれていると指摘せざるを得ない。

市場万能主義者は、悪いプレーヤーは市場に淘汰されるので結局は良いプレーヤーだけが市場に残るという。それと同じように、政治家は選挙で淘汰されるので、最後には優れた政治家だけが残るということなのだろうか。

経験論ではそんなことはないのだが、仮に最後には優れた政治家が登場するとしても人生は長くはない。ケインズの有名な言葉を引用しておこう。
In the long run we are all dead. Economists set themselves too easy, too useless a task if in tempestuous seasons they can only tell us that when the storm is long past the ocean is flat again.